ドラクエ7

メッセージを送るときの「ピロピロピロ」っていうドラクエ特有の音が、女キャラとかだと高い音で男キャラだと中くらいの音で体格の良い男だと低い音っていうデザイン、なんてスマートなんだとはたと感心してた。いまさらすぎてお前は何を今までプレイしていたんだというレベルの話ではあるが。
気になって調べた感じ、ドラクエ5まではキャラクターの別なくピロピロ音は一定のピッチで、ドラクエ6から会話相手のキャラクターによってピッチが高低変化するようになったのかな。いまさらドラクエの音周りだなんてほんとうに自分のあれがあれなのであれだけど今はじめて意識したのだもの。
3DSリメイクドラクエ7はキャラの別によるピロピロ音のピッチの高低が激しい。ドラクエ6youtubeとかで見たら差が小さかった。いまさら意識したのはピッチの高低が激しかったからかもしれない。
エロゲなんかだとヒロインごとに文字の色が違うのとかあるけれど、ドラクエの音ってなんてすばらしいんだとほんとうにいまさら。文字色が違うのは読みにくい。
例えばで想像すると、栞をめくる効果音があるADVだとして、視点となるキャラが主人公とヒロインの2人いて、めくる音が違うとか、あるいは場面で栞をめくる効果音の激しさが変わるとかなら、ドラクエ的な音になるだろうか。
全部のドラクエのピロピロ音を確認してみたわけでもないけれど、ピロピロ音のピッチの高低が小さいならばその変化はなんとなくのキャラの属性の変化を示すものとなってピッチの高低が大きいとそのキャラクターの話声のピッチと対応してしまうイメージをもつような気もする。そういえば携帯ゲーム機まわりでADVシーンをフルボイスにするのではなくて掛け声的な台詞を変わりに入れているのがRPGとかで多くあるような。プライミングというかプロンプターというか、ピロピロでピッチを提示するというか掛け声で声色を想起させるというかそれで足りるのか、どう足りるのか。

『まんがーる!』のOP曲を何度も聴き返している


まんがーる!』のOPがすばらしいけど、何度聞いて考えても説明をつけきれてない。
部分的に言葉が聞こえてくる箇所でメロディーと言葉のイントネーションが合致しているのが、言葉として聴きやすくする影響を与えてメロディーのずれを持っていても自然に聞けるのか。声優的な歌い方、発音が明瞭なのが大事なのか。歌というより演劇っぽいのが大事なのか。ベースさえあればメロディーは補完しやすくなるとかなのか、多人数で歌ってると迷い線みたいに補完しやすくなるのか。しかし自分の記事(『ドリームクラブ』のほろ酔いソングに歌とヒロインの関係性の革新を見た - とおくのおと出張版)見返すと一人で歌っていても補完しにくくてこまるということもない気はする。カラオケ的ななにかなのか、と考えだすとカラオケに詳しくないのがこまるが。リズムが一定なのは重要な気はする。演劇っぽいけれど発音がうまくなければこういう状況が成立しないかどうかは、歌ってみた動画あたりを聴き比べていけば感覚としてはつかめるかも。言葉っぽいというか言葉を聞くからずれてても聞けるという方向から考えるなら歌が話し声の高さと近いのは理由としてありそう、というのはすごい高いアニメ声とかでずれてうたっているものとあとは曲自体の音域が顕著に広い曲とかがあるとそれでも成立しているかが聞ければ。あ、らきすたの系譜、と思うとラップとかからとか思ってもラップとは違う気がする、でも音程というか音程はどんどんなくなってきてる。電波ソングとかを引いて見て、いやちがうというか。ラップとからきすたとかのが、メロが(早口でまくしたてる)ラップ調でサビが逆に典型的に聴きやすい感じ、という類型が見られる気がするが、というかそういうのでなくても最近のアニメ曲とかの印象だと喋ってるような部分をどこに混ぜてどうメリハリを付けて掛け声の間をとってみたいなのだが、まんがーるは全部カラオケというかぜんぶそのままというのが革新というとなんだが。曲が短い、アニメが短いからか?そうでない気はするが現状ではわからないな。そうだった、カラオケだけじゃなくてライブでずれた状態で歌うのが常態の分野ではもともとこうだったのかというあたりもあった。作曲家がどういうの作ってた人かというところからたどってみると、どうだろう、やっぱりほかはふつうというとなんだが。やっぱりどこまでずれても補完されるのかとか調べられてるのかとか探すのがよさそうかな。

『催眠遊戯』レビュー


期待はとても高かったが相応な内容。しかしさらなる次作への期待もしたくなる作品だった。




催眠の過程を重視したゲームですばらしい同人作品『催眠実験』の後継作である本作。『催眠実験』がすばらしいものだったため今作への期待はそれはそれは高かった、が、残念めな内容だった。ただしっかり作っている感はある。


『催眠実験』で見せてくれた催眠をかける過程がより濃厚になりこれでもかと読めることを期待したのだけれど、『催眠遊戯』はなんか催眠をかけている過程の描写が少なく感じた。各キャラ最初の2シーンくらいの描写は濃いのだけれど、それ以降はエロ描写に走ってMC(マインドコントロール)ものみたいな雰囲気が出ていた。エロ描写の量という点からは商業化からの要請もあったのかなあとは推測する、『催眠実験』の巷で見かけるマイナス評価要因には催眠後のエロが足りないというのが多かった。ただやっぱりMCに流れたら意味がなくて、もっともっと催眠の過程が読みたかった、惜しい作品となってしまった。


エロ催眠というのは「すでにエロい関係であるところから催眠をかける」or「催眠をかけつつエロい関係になる」の2通り考えられる。『催眠遊戯』は3キャラとも後者。つまりヒロインとの関係はエロくないところからはじまる。しかし本作は抜きゲーとしての側面が強い。こういうところで「早くエロに入らなければならない」というシナリオへの要請があったのかもしれない。結果として、唐突なエロ突入描写がされることになった。最初2シーン分くらいの催眠は過程も濃くて本当に良い物なのだけれど、そこで唐突にエロ系催眠に入ってしまう、そここそをより濃く描写するべきだったのに。ただの催眠はそんなに難しいものではない、そこからいかにエロに持っていくかという点こそ催眠術を扱うエロゲだから書ける部分だったのではないか。


「搦め手の魅力」が足りない、というのが私の所見。MCでなく催眠であるならば万能ではないため、エロに持ち込むためにより巧妙に搦め手をつかなければならない。何かが万能であってはならなかった。


本作のMC的な側面は健忘の万能性にあらわれている。いや万能というわけでもないけれど、催眠でより深い催眠に導くまでの過程はしっかり丁寧に書かれているが、催眠時にあったことを忘れさせる描写は薄い。催眠の描写として省略してもいい部分とよくない部分があっただろう、カウントダウンしながらの深化などはうまく省略していたと思う、反面忘れさせる部分は省略しすぎかと思われる。あと後催眠を仕込む描写も省略しすぎ。いろいろな暗示を埋め込む部分も動物化とか幻視みたいな描写力がいりそうなもので省略しすぎだったと思う、あれではMCと変わらない。


良かったのに惜しかったという場面を挙げる。
流衣の2シーン目くらいでの感情操作、あれは良かっただけに惜しかった。感情操作は蛍火ルートで多く書かれていたが「好き」以外の感情操作をもっと見たかった。本作のマイナス点として3ルートもあるのに催眠をかける過程が似たり寄ったりのものな点があると思うが、たとえば感情操作をもっと書いていたならばそこから古典催眠ではなくもうちょっとエリクソン催眠とかの描写にもつながって色々多様化したのではないかとかも妄想する。ただ古典催眠だから悪いというわけではなかった。主人公のキャラと結びつけたコインを使うのはとてもおもしろかった、しかしそういう創意溢れる催眠導入をもっと色々見たかった。


蛍火ルートでの紫雲が催眠にかかるあたりも良かっただけに惜しかった。前作の『催眠実験』を含めて、現状の催眠エロゲのネックとして被暗示性がとても高いヒロインばかりになってしまっているというのがある。それを紫雲が打ち破れそうな可能性を垣間見せた。それだけに惜しい。3人が動物化催眠にかかったふりをする、あそこから被暗示性の異なるキャラたちにどう催眠をかけていくのか、あるいはかけないのかという部分で期待したが、時間をかけたら催眠かかりましたくらいの実にもったいない処理だった。


惜しいといえば、シーン数を増やしたのはわかるが意外と(『催眠実験』も含めて)似たり寄ったりのシーンが多いのも残念。例えば指しゃぶり、多すぎるのでは。逆に感覚操作の暗示を入れたうえで主人公がヒロインの指をしゃぶるくらいの変化はあっても良かったのでは。
催眠映えがするかという点でも問題点があったように思う。フリーズはエロゲでは映えないように思う。『催眠実験』でもフリーズはあったけど、もともと静止しているエロゲでは映えない。他方、静止時のポーズなどがおかしいものはエロゲでも良いように思う。例としては舞夜のあぐらや流衣の彫像など。ああいうものは一枚絵で映えていた。そういう意味では床に倒れ込んだ舞夜の一枚絵が本作では特に良かったように思うが、ああいのがもっとほしかったなあ。


「あ゛あ゛あ゛あ゛」系の喘ぎ声は必要なかったというか、声優ががんばっている感も出ていてギャグにしかなっていなかったというか。
「あ゛あ゛あ゛あ゛」という声がなぜああなったかというのは、比較的浅い催眠をかけられている段階での声が元気すぎたために、理性を振り切ったときの音声の描写が過剰に激しいものとなったのだろう。催眠中のもろもろの音声が仮にもう2段階くらい眠たげな感じであったならより良かっただろうになあと。


即死選択肢を導入したのは良かったのではないか。本作の催眠は催眠であってMCではありませんというのを印象づけるために効果的だった。ただしかし、即死選択肢はすべてエロに走るか否かのものであるのに、主人公がそこまでエロに強く走る動機や描写や欲が書かれていなかった。エロイことをはじめる場面も唐突だったが、エロい欲求の描写も唐突気味だった。


商業化して、ルートが3つになって6通りのエンディング。これもマイナスに働いたのだろう。真エンドに入る前のエンディングはルートがあまり関係ない上にルートでの描写と食い違うようなものと言えた。あと舞夜ルートで描写のなかった催眠があったように思う、シナリオの整合性というとなんだが、ルートが増えることで催眠深度や依存関係といったものがより深まるという物語としての筋を見失い、見事な催眠導入とMCエロとおまけエロシーンみたいになってしまっており構成は残念なものだった。
途中で二人目に行くかいかないかの選択肢は、あれでいろいろ変わるのかとおもいきやほぼ意味のない選択肢で、作りこめていなかったのだろうか。即死選択肢が短いのはいいとして、普通のエンディングはもうちょっときちんと書いてほしかった。各ルートのエンディングは余韻もなく、真エンドは実質おまけエロシーンであって、本作はきっちり締めるエンディングに欠けていた。そういう物語の筋がしっかりしているかとかエロに走る描写などという点で『催眠実験』が実に設定とうまく調和していただけに、本作が惜しい感じになったのだろう。とはいえマジシャンという設定がおもしろかったし活きていたことも疑いない。もっとやれたかもしれないが。


・まとめ
催眠導入を重視したエロゲとして他にない価値のある作品。
商業作品として分量とエロを重視したためMC的な側面が強まったのは残念。『催眠実験3』に期待。


『人類は衰退しました』の妖精さんに狂気を感じる?



人類は衰退しました』のアニメを見ている人が妖精さんに狂気を感じるのはわかる気がします。けれど原作の小説を読んでいて妖精さんに狂気を感じたということは私自身なかったように思います。
妖精さんに狂気を感じる原因として考えられることを以下に書きます。


アニメの妖精さんは強く記号化されています。具体的には口が開きっぱなし。

アニメ中はずっと口が開きっぱなしで口パクもありませんでした。口を閉じている妖精さんが描かれた場面はたぶん一度もないはずです。
ちなみに小説挿絵では口を閉じた妖精さんも描かれています、口は開きっぱなしというわけではありません(ただし絵師交代後の挿絵については存じません)。


妖精さんは原作小説の時点から既に十分記号的なキャラクターとも言えますが、アニメでは口パクなしの口開きっぱなしなのに個々の妖精さんが個性的な声で喋りまくっているため、絵としての記号っぽさは際立っていると言えると思います。また小説ではあくまで挿絵であり挿絵枚数もラノベとしては多い方ではないため、妖精さんの記号っぽさはアニメほどではないはずです。


で、だ。


小説での妖精さんは「現人類である」ということがしっかりと書かれている。現人類は妖精さんであるということが折にふれて出てくるし、キャラクターとしても妖精さんを立てていて、名もない一人称による妖精さん調査日誌という雰囲気を意外とちゃんと保っている。
しかしアニメでの妖精さんは一応現人類であるとは語られているものの、張り付いた記号的な顔が甲高い声でしゃべる不思議アイテムが擬人化したようなキャラクターという趣。アニメの主役は「わたしちゃん」であると捉えている人がほとんどなように見受けられる。100万声優パワー
小説版人退は「わたしちゃんが可愛いキャラ小説」ではなかったと認識しているが、アニメ版人退は「わたしちゃんが可愛いアニメ」という側面が相当に強い作品だ。そして妖精は主役ではなく従属の立場に退いていた。さらにその従属的なキャラである妖精はとても記号的だった。


結果として、アニメ版人退では、妖精さんはわたしちゃん以下「人類」の妄想である、というような雰囲気すらあった。
小説ではあくまで衰退という事象があり、「旧人類」と「現人類」がいて、現人類の物語としての体裁を保っていた。
けれどアニメでは衰退がない上に「旧人類」であるはずの「わたしちゃん」があまりに印象的な作品となっているため、考えずに見ていると「現人類」はいまもかわらず「旧人類」であり、妖精さんは「現人類」が狂ったとか認識が変わったとかで見出した何かでしかないのではという文脈が出ていたように思う。アニメの妖精さんは妄想の産物であって、現人類も旧人類もなく単に狂った人類がいるだけの世界だ、そう見てしまいそうな描写だった。つまり妖精さんが狂気を有しているのではなく旧人類が狂っているみたいだと。
その部分が「妖精に狂気を感じる」という感想につながるのではないか?という話でした。おしまい。




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顔の左右非対称性と立ち絵について


結論から書くと「正面からの立ち絵は、顔を非対称に書くと生き生きとしてくる」というものです。以下で詳しく話します。


めくじらというサークルの『鬼監督と俺の彼女』という同人エロゲの絵が非常にうまいというか迫力があって印象的で良いなあと思ったんです。↓の絵です。詳しくは公式をご覧ください。

一目見てわかるように顔とその表情が左右で非対称です。そして良いです。右と左でにやけかたが異なっていて存在感のある迫力があっていやらしさも出ていて良い感じです。


この左右非対称な立ち絵を見て、人間の顔は左右非対称であるという話を思い出しました。よく言う話ですが、こちらのブログ記事なんかを見ると顔の左右がどれだけ非対称性とかわかりやすいです。
で、思いました。顔の左右非対称性が立ち絵のなんとも言えない「うまさ」につながっているのではないか?
先ほどのブログ記事の画像なんかを見ると、顔が左右対称に整っていると不気味の谷っぽい印象になって表情に生気がなく感じられるのがわかるかと思います。


ゲームの立ち絵などはリアルの人間に比べて絵という点で色々簡略化されているため、左右の非対称性というのはあまり表に出てきにくい要素です。さらにはアドベンチャーゲームの表情指定のことを考えるとリソースに限りがあるため、泣き笑いみたいに顔が左右非対称に歪みそうな表情よりもまず顔全部で笑って全部で泣いてというような表情が求められるだろうと想像できます。そうした単純な表情でさらに真正面からの立ち絵であれば、顔が左右対称であることが多くなるでしょう。


……ここから、以前はひぐらしのなく頃にの絵が意外と良いのは表情が豊かだからなだけではなくて表情に左右非対称性があるからではないかとか、そこら辺のエロゲの顔がいかに左右対称なものばかりかとかを引用しながら書こうかと思いましたが、個人的に気になったあたりを軽く引用するにとどめます。





上の例だけだと少ないですがいろいろ見ればみるほど、最近の絵はうまくて、でも左右対称な傾向が強いように見受けられました。
左右非対称のほうが表情は豊かになってくるだろうなあとは思うのですが、そういう非対称性はウインクがどうとか普通の表情でどうというよりも、感情が高ぶったときに見せる崩れた表情のとき左右で微妙に異なるニュアンスの表情をしていて複雑さが見て取れるか、とかそういう場面の立ち絵での重要性につながるのではないでしょうか。
またそれとは別にいわゆるデッサンが崩れていると言われるような絵でもどこか表情豊かに見えてゲームで長く付き合っていると愛着が湧いてくる絵で、そのヘタウマの要因に左右非対称性が関わっているのではないかと考えていますがここでは保留します。
……結論に辿りつけていないのですがこのあたりで。とりあえず、顔の左右非対称性に注目して立ち絵を見てみるといいですよーというくらいで。

「オナニートレーニング」というゲームジャンルが次に来る

『てにおはっ!』の作品ポイントの説明にある「快適なオナニーライフを」という文言を見て考える。
「快適なオナニーライフをサポート」的なエロゲーは、なんか最近目に付くようになった気がする。WAFFULとかILLUSIONとかであるような?ソフト。それはエロゲのシステム周りが充実していることの価値が周知されて、18禁ソフトな面を押し出してストレスなくプレイできるよう割り切ったときに生まれる良さがある。


でもより素晴らしい「快適なオナニーライフ」をソフト側が提供しようとするなら、プレイヤー側の好きにカスタマイズできますよというだけでは足りない。足りない。魅力は、価値は伝えられてしかるべき。


スローオナニーのHow to本がしばらく前に出たのは記憶にあるだろうか、話題になったように思う。


スローオナニー入門 「快感をもっと長く、深く味わう "スローオナニー"の世界」 : アキバBlog




催眠オナニーの本が出て、アナルオナニーの本が出た。

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時勢が傾き、「オナニー」は広い範囲を指す言葉でありあって、オナニーは入門できるものであり、挑戦できるものであり、研究できるものであるというように・・・・・・なんとなくそうなってきた。


じゃあ、、、なら、エロゲ的なものが快適なオナニーライフをサポートするのであれば、そこには説明と解説と指導と達成があるほうがより良い。つまり、一緒にオナニートレーニング。


いっしょにとれーにんぐ』というものがあった。そう、既にあった。但しオナニーではない。

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なにかと一緒にトレーニング、別にビリーズブートキャンプだってそうだしWii Fitだってそうだし、脳トレなんかもそうかもしれない。スポーツ的なトレーニングとオナニーはちょっと違うと思うかもしれないけど、でも同じだ。やり方とか好みとかはいろいろあるのは大前提で、それでもてきとうにやるよりは教本とかに沿って丁寧にやるほうが効果的なことは多い。
ゲームのインタラクティブな随所の励ましがあるとトレーニングは刺激-反応的な意味でふつうに気持ちが良くなるし、ゲームや映像の指導であっても指導や手本があるという状況はプレイヤー(トレーニングの場合は受講者と言うべき?)の動作や手順を丁寧なものにする。「自分一人でさあどうぞお好みのままに」というのではやはりルーチンの慣れと飽きを脱しにくいが、そこに一緒にオナニートレーニングをしてくれる先生がいれば、いつものオナニーでいいかげんになっていたひとつひとつのオナニーの所作や感覚に気づきが生まれ、それはより快適なものとなるでしょう。


「いまから10クリックで主人公が射精するよ」と教えてくれる最新のエロゲーがある。なら次に来るべきは「いまから10クリックで主人公と一緒に射精するのが一番気持ち良いよ」と教えてくれるエロゲだ。
「いまから50クリックの間は性器を触っちゃだめだよ」とか「これから20クリックの間はわたし(ヒロイン)のフェラチオをしっかり想像して感じてごらん」とか。そしてプレイ内容に何かしらの指向性と嗜好性を持って、それこそスローオナニーなんかが相性いいと思うけど、なら、プレイヤーと一緒にトレーニングして、より良い快適が生まれる。プレイヤーの嗜好に任せてお好みにというだけでは足りない、それはエロゲに限らずきっと、だから、エロゲで一緒にオナニートレーニング。

唐辺葉介『PSYCHE』の新書版と文庫版(旧版と新版)の違いについて


唐辺葉介のデビュー作『PSYCHE』はスクウェア・エニックスより2008年8月16日に新書版で刊行されましたが絶版となっていました。しかし傑作である本作は唐辺葉介の人気もあってかこのたび2012年6月7日に星海社より文庫版の刊行というかたちで復刊しました。
傑作の復刊というだけでも望外のことですが、刊行時に唐辺葉介のブログで

若干の改稿と、イラストの変更、追加を行っています。

という気になる発言がありました。
「若干の改稿」がどの程度のものなのか両者を並べて見てみようとはずっと思ってはいたのですが遅くなりまして、先ほどようやく確認しました。


ぜんぜん違うじゃん!


全編にわたって「若干の改稿」がほどこされています。確かに改稿の範囲であって書き直しとまでは言えないかもしれませんが、改稿と言える範囲で最大限に改稿されています。
確認する前は重箱の隅をつつくつもりで探して細かい差異をリストアップするつもりでしたが、できません。改稿されているところを挙げたら全文引用みたくなりかねません。


改稿の傾向としては、旧版である新書版に比べて新版である文庫版のほうが改行が少なくなっており描写や説明が細かくなっています。ざっくり確認しただけなので見落としもあるかもしれませんが、新書版であった言い回しが表現を変えられたりしている部分はあっても、表現や場面が削られている部分はあまりないようです。
文字組みは、新書版42字×17行で234ページ、文庫版は40字×17行で252ページです。


色々抜粋して確認してみましょう。それぞれの比較で、ひとつめが新書版(旧版)、ふたつめが文庫版(新版)になっています。
まずは序章の冒頭部。

ドアの外から階段を軽やかに下りる足音が聞こえた。
靴下を履いた足のやわらかな音。あれは姉さんだろうか。今日はやけに元気がいいな。いつもみたいにあんまり大人しいのも物足りないけれど、活発になるとそれはそれで不安になる。出来れば昔みたいに普通にしていてほしいのだけれど、それは無理な注文というやつなのだろう。

靴下を穿いた足で階段を駆け下りるあのやわらかな音は、姉さんだろうか。今日はやけに元気がいい。いつもみたいに大人しいのも物足りないけれど、活発になるとそれはそれで不安になってしまう。全てが前触れもなく行われてしまうので、出来れば以前のように僕にもある程度は理解出来る流れを持って行動して欲しいのだが、それは無理な注文というやつなのだろう。結局のところ、僕の方が受け入れてゆくしかないんだ。


別物です。
旧版を横に置いて目で見ながら手で書き写したらこうなるのではというくらいに大きく違います。
冲方丁の小説『マルドゥック・スクランブル』が全面的に改稿されたという例がありますが、個人的にはそれを彷彿とするくらいな改稿っぷりです。


次の抜粋は2章より。

藍子は軽く笑ってから脚立を降り、すると僕より背が低くなった。
「まったく、そんなんで高いとこ昇ってパンツが見えても知らないよ」
「見えないよ」

藍子は軽く笑ってから脚立を降り、すると僕より背が低くなった。
「まったく、そんなんで高いとこ上って落っこちても知らないよ」
「落ちないよ」

……この違いは主人公像に関わるよなあ。


3章途中。

「どこでこんなの手に入れたの?この蝶の仲間は、日本にはいないはずだけど。僕だって、動物園か標本でしか見たことないよ」
「いや、ちょっと行く機会があってね。地球の裏のジャングルに飛んでた蝶の羽だ。遠い異国に思いを馳せてみろ。そうするといっそう鮮やかに見えるだろう?」
そして彼は特有の投げやりな声で笑う。
「確かに、そのあたりはモルフォ蝶がたくさん住んでる場所だけど……いつのまにそんなところに行ってたの?」
僕は訊ねた。
お盆に顔をあわせたとき、駿兄は辛気くさい顔をしていた。
それで「いろんなことにウンザリしたから半年くらいアパートに引きこもって学校のことをする」なんて言っていたはずだ。
「あのときは、とうとう鬱病になっちゃったのかと思って、伯母さんと一緒に心配してたのに。それが地球の裏側まで行って、日焼けなんかしてるなんて」
僕が言うと彼は軽く鼻で笑って、
「そんな言葉真に受けるのが間違ってる。どうかしてるぜ」
駿兄は全然気にしていない。
「それにしたって、遠くまで行きすぎだよ。地球の裏側じゃないか。きっと伯母さんがそのこと知ったらビックリするよ」
「あの人は心配しすぎなんだ。大学なんか中退一流って言うくらいだし、ほっときゃいいんだよ。それに、今回は悪いことしに行ったわけじゃない。仲のいい教授の研究に手伝いでついてったんだよ。学問の探究ってやつだな」
彼は皮肉るように笑った。
「そうなんだ。すごいなあ」

「どこでこんなの手に入れたの?この蝶の仲間は、日本にはいないはずだけど。僕だって、動物園か標本でしか見たことないよ」
そう聞いてみると、
「ご名答。これは地球の裏のジャングルに飛んでた蝶の羽だよ。わけあって、長期旅行する機会があってね。遠い異国に思いを馳せながらよく見てみろよ。そうすると一層鮮やかに感じないか?」
そして彼は特有の投げやりな声で笑う。
「地球の裏のジャングルって、南米のあたり?確かに、そのあたりはモルフォ蝶がたくさん住んでる場所だけど……いつのまにそんなところに行ってたの?」
お盆に顔をあわせたとき、駿兄は辛気くさい顔をしていた。それで「いろんなことにウンザリしたから半年くらいアパートに引きこもって学校のことをする」なんて言っていたはずなのである。それが、そんな、およそ考えられる限り最も遠い場所に行って来たとはどういうことなのか。
「あのときは、とうとう鬱病になっちゃったのかと思って、伯母さんと一緒に心配してたのに。それが地球の裏側まで行って、日焼けなんかしてるなんて」
僕が言うと彼は軽く鼻で笑って、
「そんな風に僕のことを考えるのが間違ってる。どうかしてるぜ」
駿兄は全然気にしていない。
「それにしたって、遠くまで行きすぎだよ。地球の裏側じゃないか。きっと伯母さんがそのこと知ったらビックリするよ。駿兄はずっとアパートにいたと思ってたはずだから」
「今時地球上にびっくりするほど遠い場所なんかないさ。どこに行ったっていいじゃねえか。それに、今回は悪いことしに行ったわけでも、遊びに行ったわけでもない。仲のいい教授の研究に手伝いでついてったんだよ。学問の探究ってやつだな。褒めてほしいくらいだ」
彼は皮肉るように笑う。
「研究?へえ、そうなんだ。すごいなあ」

改稿しまくりです。


7章途中。

「絵を見たよ。かわいい絵だね。」
先輩はそう褒めてくれた。
僕がいや気持ち悪い絵ですよと返すと怪訝な顔をした。よくない対応だったかもしれない。

「絵を見たよ。かわいく描けてるね。」
先輩はそう褒めてくれた。
僕が、いや見たままをうつしただけのつまらない絵ですよと返すと怪訝な顔をした。よくない対応だったかもしれない。

こんな感じで全編にわたってだいぶ手が加えられています。
先にも述べましたが、文庫版では改行が減って描写が細かく改稿されている傾向があります。文庫版で削られた場面というのはぱっとみ見つかりませんでした。
文単位では例えば7章最後のあたりの

『ああそうか。そうだったな!死んでしまったんだっけ。他人ってのは本当に可哀想だなあ。なんだって死んでしまうんだろう?つまらないことをするもんだ。でも、かまやしない。どうだっていいよ。あの子も雪が好きだったじゃないか。たとえ死んだからって仲間はずれはだめさ。直之もそう思うだろう?』

『そうか。そうだったな!死んでしまったんだっけ。まったくいやになる。なんだって死んでしまうんだろう?つまらないことをするもんだ。でも、かまやしない。どうだっていいよ。あの子も雪が好きだったじゃないか。たとえ死んだからって仲間はずれはだめさ。直之もそう思うだろう?』

という部分の「他人ってのは本当に可哀想だなあ。」であったり、
終章冒頭部の

ベッドを抜け出て床に降りた。身体がよろけて乱暴に足音を立てると、蝶立ちが一斉に舞いあがった。そして視界が青い吹雪に覆われる。キラキラとした幻想的な青色が僕のまわりをとり囲む。青色のなかに、まつげの長い目が見えた。それは、感情のない冷たい目つきだ。二重まぶたのぱっちりとした無数の目玉が無表情に僕のまわりをグルリグルリと踊り狂う。目玉の空中ロンド。

ベッドを抜け出て床に降りた。身体がよろけて乱暴に足音を立てると、蝶たちが一斉に舞いあがる。そして視界が青い吹雪に覆われる。キラキラとした幻想的な青色が僕のまわりをとり囲む。青色のなかに、まつげの長い目が見えた。それは、感情のない冷たい目つきだ。二重まぶたのぱっちりとした無数の目玉が無表情に僕のまわりをグルリグルリと踊り狂う。

という部分の「目玉の空中ロンド」なんかは単に削られたみたい。


なので内容的には新書版をより詳しくしたものが文庫版と言えそうではあるのですが、旧版の『PSYCHE』は言葉遣いや改行の多さによるやたら平易な雰囲気が作品の雰囲気にも大きく関わっていたと思われる作品なため、個人的には文庫版と新書版は同じ『PSYCHE』ではあるものの大幅改稿を加えられた別物として考えたいです。




・まとめ
新版と旧版でだいぶ違います。
唐辺葉介ファンの人はどちらも読むほうが良いかと。



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