新海誠はいつになったら天門と決別するの?

pub99にÀ Pour mort d'or : 音楽による作品選出、あるいはその受容についてみたいな記事を書けと言われた気がしたのでとりあえずこの記事をちゃんと読んでみたけどだからさーみたいな気分になった。
けどせっかくなのでちょっと書く。




新海誠作品の音楽について。
確認するまでもなく新海誠のネックは天門新海誠の作品の雰囲気が天門の音楽に支えられているところはあるが反面、天門の音楽なんかをいつまでも使ってるから傑作の一つも作れていない。
天門の音楽はなんていうの?エロゲ系?ピアノの鍵盤の高いほう3分の1しか使わない上に調性から全然外れない音楽作り、こういうのwin98の頃の感動系(KEY系)エロゲで多かった気がする。Clannadの坂道をのぼり始めるときの音楽なんかがわかりやすい例かと。
そんなわけで天門の音楽を引き合いに出して新海誠の作品を褒めている文章を読むたびに牛の鳴き声のような感じなんです。しかし新海作品で一番高く評価されている『秒速5センチメートル』の音楽は天門というより山崎まさよしだというのはさもありなん、天門だから微妙というのは共通の理解なんだろうなと思わされます。


そんな『秒速5センチメートル』の山崎まさよしの音楽「One More Time, One More Chance」なんですが、これがまあ低い!ピッチが低い!低い!映画見るたび(3回くらい見ました)にまたあの低いピッチを聴かなきゃならないのかうわーっとなる。

山崎まさよしという歌手の傾向を踏まえても「One More Time, One More Chance」はことさらピッチが低い。たまにびしっと合わせているけど全般的に低い。さっき「セロリ」を聴いて確認してみたけど、「One More Time, One More Chance」ではピッチの低めへのずれ幅が広いというのもあるかも。
・・・・・・ということも言うまでもないことです。聴いた通りなので。
んで「One More Time, One More Chance」ですけど、ピッチが低いのがわざとなのも言うまでもありません。合わせようと思えば合わせられるけど合わせていないのは聴いた通りです。山崎まさよしは上手い歌手です。
ギターはピッチも音色もそれはそれは綺麗なもので、そのギターと並行してすごい低くピッチが調整された歌が3部構成の映画の最後で最大の山場として歌われるそのとき、カタルシスを感じさせるはずの展開でありながらも音楽面ではどこまで聴いても調性に嵌ってくれないピッチの歌が寄り添う(カタルシスは桜花抄にしかなかったっ・・・)。『秒速5センチメートル』の独特で印象強い読後感はここに由来する。天門作曲のテーマソングではこうはならない。


・・・・・・ということまでは見ていれば、聴いていればわかることなのに誰もそういうことを書いていないのは、あえて書くことではないからだよなあと思いつつも思わず書いてしまった。
本来書くべき話すべきはここから先の、山崎まさよしの歌唱技術や歌の構成や、そういったものと合わせた新海作品のつくりかたですよね。やっぱり書く必要なかったな。



秒速の山崎まさよしの歌は語りと歌の中間を狙ってるというにはピッチが低めで安定しすぎているし声も伸びているので歌になりすぎているからあれはやっぱり歌だと思うけどどうかなーとか、フォーク系としてはだいぶ言葉が明瞭な歌手ではあるけどそのため歌詞はほぼ台詞(というかナレーション)くらい重い気がするなあとかとかそういうことが話せれば楽しいですね。