瀬戸口とか『SWAN SONG』とか


既存の瀬戸口論全般が全く得心のいかないものばかりで語る気もなかったが、人に説明できるかたちで見えた気もするので書いてみます。


今までの論に対する印象は一言、音楽が足りない。それを説明しないと伝わらないのだろう。


他人の論はあまりあさってないしちゃんと読んでないからてきとーに言うが、瀬戸口読解の観点は「生」「死」とか「希望」「無力」とかそんなん?それでは駄目だ。
SWAN SONG』は音楽だから。
SWAN SONG』の司を希望とか絶望で書くならまず「音楽」という観点を踏まえなければならない。「神」には手は届かない、触れようとする努力は無駄でしかない。しかし「音楽」は違う。ある種の人々は「音楽」に触れうる、あるいは「音楽」そのものになる。「音楽」を体現すると言ってもいいかもしれない。
司は幼少の天才であった頃に音楽に触れていた、おそらく。それを失った。その後も司は音楽に向かうが、音楽は触りえぬ神自身ではなく一度は傍らにおいたものであるだろう。いっぽう柚香は音楽に触れることはできない、天才ではないから。両者の生における足掻きかたは異なるが、その対比の前提が全く違う立場であることを踏まえなければならない。
別の言い方をすると、「持つ者と持たざる者」みたいな対比にさらに「持ちうる者と持ちえない者」という対比や「持っていた者と持ちようがない者」とかが重ねられていることが瀬戸口(の作品全般は検証していないが少なくとも『SWAN SONG』)の独自性だろう。


神は殴りつけることはできないだろうが、「音楽」は殴りつけることができる人がいる、という点がたぶん足りない。



追記:
具体的に挙げてみるならhttp://d.hatena.ne.jp/kaien/20090917/p1なんかが全く得心のいかないレビューの一例と言えるだろう。
まず安易に司と柚香に対立構造を読み取っているが、先に述べたように音楽を踏まえての二人の前提が全く違うので対立構造で読むべきではない。むしろ表面上は対立構造っぽいのに裏では全くすれ違っているおそろしさを見いださねばならない。
また音楽に対する姿勢から見てもいい。
司視点で

いま僕の両手は、お互いに向き合ってしまっている。無視されるかたちになってしまったピアノは、すっかりふてくされて、両手の必死さなんかおかまいなしに好き勝手に出鱈目な歌を歌っている。僕のピアノはとても気分屋だから、うまく乗せてあげればぎっくりするぐらい凄い音を出してくれるけど、ちょっと機嫌をそこねるとこれだから困ってしまう。

というように語られている。司は自分自身を向くのではなくピアノと向き合わなければならないと考えているわけだ。対する柚香は、特に引用はしないが思い出してほしい。彼女は悲劇のヒロインとなった自分自身に酔いながらピアノに向かうような子であった。


上のレビュー、「絶望」に対する「たたかい」というような読み方も全く駄目だ。
ぱっと見「絶望的」には見える気持ちはわかるが「絶望」ではない。「音楽」が「絶望」だとでも言うのか?否。

「だって、傲慢でむかつく何かが、僕の手の届くところまで入って来てるんですよ。(中略)川瀬さん。僕は思うんですけど、あなたを追いつめてるものもきっとあの偉そうなやつなんじゃないかな。

というような司の台詞を見てもわかるが、司(たち)の相手は傲慢でむかついたり偉そうだったりはするが決して悪魔や何かじゃない。司たちを追いつめようとする相手が「音楽」に類するやつだと考えれば自明だ、音楽はうつくしい。希求しているものは音楽のようなうつくしいものだ、絶望なんかじゃない。絶望させられる人は勝手に絶望しているだけであって音楽はそんな好戦的なものではない。
だがここも気をつけなければならないのは、司は音楽に向かっていっているが司は一度は音楽を傍らに置いた天才だ。柚香はうつくしいものは自分には触れえないと考えた。などなど。二人以外を読むなら音楽から離れなければならないが、うつくしいもの(追いつめてくるが絶望ではない何か)とは何か点から読めば絶望的なすれ違いこそ読めるが絶望はない。拓馬の倫理観や雲雀の母性などね。


というように『SWAN SONG』読んで絶望とたたかっているような人は作品名から読み直しましょう。






追記2:
コメントをいただいたので『キラ☆キラ』を思い出してみた。残されたセーブデータ、一番記憶に残った部分を見返した。このくだりを読んで物語が腑に落ちた記憶がある。

「パンクロックはいつだって間違いだらけだけど、それが優しいんです」
電車に揺られる翠ちゃんは、嬉しそうな顔で言う。
「ああいう音楽が味方をするのは、大抵、落ちこぼれた人とか、寂しい人とか、嫌われてる人じゃないですか」
翠ちゃんはまっすぐ僕を見つめつつ、語る。
「それで、擁護してくれるのはいいんですけど、全然理屈が正しくないし、支離滅裂で、行き当たりばったりで、だけど、妙に明るくてご機嫌で、馬鹿っぽいんですよね。だから、すごく心が温かくなるんですぅ。私ももっと間違っても大丈夫なんだって、むしろもっと勇気を出して間違っていくべきだって、そう思えるんですよお」

SWAN SONG』はクラシック、『キラ☆キラ』はパンク。『キラ☆キラ』を音楽から考えるなら、クラシックとパンクの対照的に扱われている部分と共通する部分、音楽における天性を持ったキャラとその苦悩の原因とかを並べて見ると『SWAN SONG』と『キラ☆キラ』の物語全体の雰囲気の差異を読めそうな気がするけど、ちゃんと書くほどまとまっていないのでこれだけで。