樺薫『ぐいぐいジョーはもういない』 感想



とっても硬派な野球小説。意外なほどに小説らしい小説に仕上がっている。




ガガガ文庫で2冊を上梓している樺薫の新刊は講談社BOXから出版されました。本作『ぐいぐいジョーはもういない』は『このライトノベルがすごい!』大賞の投稿作のようですが無事出版されて何よりです。
さて感想。
まずなにはともあれ樺薫の女子野球小説が読めたことを喜びましょう。が、不完全燃焼だった気がしなくもない。
樺薫の過去作は一部の場面・一部の文章だけすばらしいけど全体としてはあまり人に薦めにくいまとまりの小説だったが、今作はなんかすごく全うに小説らしい小説。引用も構成も盛り上げ方も物語の枠組みもパッケージされた商品としてのらしさを感じる。だがそれが原因なのか(は分からないが)突き抜けるように凄い一場面というのはなかったように思う。
そんな場面場面に物語としての役割を感じさせられる今作の白眉は物語中盤において粛々と語られる野球の試合描写である。作者曰く本作は

無走者打席での凡退の描き方ってこんなにいっぱいあるんだ、とそこだけは感心していただける稀有な作品には仕上がっているかと思います

とのことだが、実に読み応えのある凡退の山。野球が好きな人にはこの一場面だけを理由に薦めてもいいほどに読み応えのある凡退シーンが続きます。
樺薫は垣間見える色気なんかを描写させても良いのですが本作はそういう色気が少なく、バッテリーと打席と凡退こそがメインという様相を示しています。作者は本作を「本格百合野球小説」と称していますが全く硬派な野球小説です。これが野球小説ファンの手に渡らないともったいないのでちゃんと知れ渡ることを願いたいです。
そして百合についてなんですが、百合はあまり売りにする部分じゃないように感じました。確かに百合と言えそうな関係や場面はありますが野球のバッテリーの独特の距離感を女子高生を題材に書いただけで、早い話がいつもの樺薫です。バッテリーの関係性の機微のあらわれと読むには良くとも百合を読むには野球以外の背景描写とか色気とかがもっとほしかったような。なので本作は硬派な野球小説なのです。
あとはサイモン&ガーファンクルの歌や映画『卒業』がモチーフとして多用されているので、知っているとより楽しめるかと。


・まとめ
「剛速球と高速スライダー、それに安定したコントロール」を武器とする女子高生ピッチャーが凡退の山を築く野球小説。頭からしっぽまで全部野球。
たっぷりの野球描写がきちんと小説としてまとまっているので野球好きな人は読むと良いと思います。




他の人の感想
『ぐいぐいジョーはもういない』: nokotsudo BLOG
ぐいぐいジョーはもういない 感想 - ここにいないのは
日刊リウイチ:9月4日の日記に記載




参考用リンク
卒業 (1967年の映画) - Wikipedia
ジョー・ディマジオ - Wikipedia
Mrs. Robinson - Wikipedia











以下とてもネタバレの感想。










残念な点は、もっと分量があればというのがまず一番かと。自チームと相手チームだけでも18人のスターティングメンバー。無走者打席での凡退を通してしっかりキャラクターを書いてくれたけれども2試合分だけであって、もう1試合でもあればもっとキャラクターの魅力が伝わってきただろうにと思わされる。
あとはやはり小説らしい小説にしたことで「人生の中で、女の子が高速スライダーをおもいっきり投げなくちゃならない日は、限られている。」という文が頭と締めを担ってしまっていてこれがもっとずばっとくる文だったらとか、最後の一球を投げる際の描写が悪くないけどもっと冲方とかみたくずばっとくる感じだったらとか「破滅の音」で巨人の星が頭をよぎってややギャグに見えたり、会場の大歓声を「おおおおおお!」と書いてあるのはどうなのかなあ普段は避けるスペクタクルを小説らしい小説にするために書いたせいで出てきた文なんだろうなあとか。
あとは絵がほしくなったなあとか。色気の描写が少ないと書いたけど、プロローグに色気があったからそんな感じかと思いきやプロローグだけだったかなと。そして以降野球描写でもって流石にキャラのバッティングが目に浮かぶような描写なんだけど顔が浮かばないので、絵があったらなあと。とはいえそういう野球の場面は映像で浮かぶのに顔は浮かばないような描写というのも込みで硬派だったのかも。そして挿絵は、そういう顔が浮かばない小説に対する絵としては顔の書き方が無個性で体型もデフォルメでただのイメージ画ですという感じだったので小説のイメージを妨げるものにはなっていなくて助かった。
あとはパセリとかローズマリーとかなぜそこまで変わった名前を出してまでS&Gに重ね合わせたのかなあとか。
そうそう、打席の描写が、なんというか、普通の観点から書かれていたよなというのもあった。未来の球を、いまここには何もない空間を打つというのがいいよなと思っていたがその観点が最後のバッターの最後のスイングで「狙いは空想上の未来位置。」と出てきておおっっとなった、が、そこでおおっとなるんじゃなくて最初からおおっとなりたかったというような。